ⓒ2017「彼らが本気で編むときは、」製作委員会
2017年/日本/127分
監督・脚本:荻上直子
出演:生田斗真/桐谷健太/柿原りんか/ミムラ/田中美佐子/小池栄子/りりィ/門脇麦/柏原収史/込江海翔/江口のりこ/品川徹
映画『彼らが本気で編むときは、』ストーリー
母親が自分ひとりを置いて家を出ていってしまった11歳のトモ(柿原りんか)は、叔父のマキオ(桐谷健太)の家で暮らすことになる。そこには、トランスジェンダーの女性リンコ(生田斗真)がいた。最初はリンコの存在にとまどいを感じていたトモだったが、愛情に飢えていたトモは、優しいリンコにしだいに心を許していく。
映画『彼らが本気で編むときは、』レビュー(感想)
※ストーリー展開に触れています。
この映画には何人かの母親がでてくる。リンコの母フミコ(田中美佐子)。トモの母ヒロミ(ミムラ)。トモの同級生カイの母ナオミ(小池栄子)。そしてマキオとヒロミの母サユリ(りりィ)。
もちろん物語の中心は、リンコとマキオ、そしてトモであり、リンコとトモに絆が育まれていく様子には心に温かいものが広がるのを禁じえなかったのだが、それと同時に、彼らをとりまく母親たちの存在がとても気になったのだ。
リンコの母フミコは、トモと初めて会ったとき、トモに向かって「ねえトモちゃん。ひとつ言っておくけど、リンコを傷つけるようなことをしたら承知しないよ。たとえあなたが子どもでも、私は容赦しない」と言い放つ。再婚した夫が「フミコさん、やくざみたい」と言うように、これは立派な恫喝である。小学生に言う言葉ではない。
このセリフからわかるように、フミコはリンコに徹底的に寄り添っている母親である。男の子として生まれてきた子どもが、心は女の子だと知ったとき、フミコは息子の母親ではなく、娘の母親として生きることを決意したのだ。中学生のリンコにブラジャーと、毛糸に詰め物をした“ニセ乳”をプレゼントする回想シーンが娘の母となるフミコの覚悟を象徴している。
これに対してトモの母ヒロミは、自分の子どもにほぼ無関心だ。トモが本当は嫌いなコンビニのおにぎりを与え続け、トモを置き去りにして男と逃避行を繰り返す。完全な育児放棄である。
カイの母ナオミも自分の子どもを見ていない。カイは学校で「ホモ」「オカマ」とからかわれているのに、ナオミはカイの心とからだが一致していないかもしれないことに気づいていない。もしくは気づかないふりをしている。
マキオとヒロミの母サユリは、認知症が進行しているらしく施設に入っている。施設の庭でのマキオとトモとの会話から、サユリはヒロミに厳しく接してきた母親であったことがわかる。それが愛情の裏返しであったことも。サユリは愛情表現がヘタな母親だったのだ。
親子によってその関係性はさまざまだろうが、母親としてのヒロミは、あまりといえばあまりである。逃避行から戻ってきて、マキオからトモを引き取りたいともちかけられると、「あげるわけないじゃない。トモは私の子よ」さらには「私、女なの。母である前に女なの」と開き直る。母親という一点のみにあぐらをかいているその姿は、あきれるを通り越して、無惨ですらある。
しかし、ここまでではないにしても、それと似たようなことをしてしまってはいないか。親子、きょうだい、夫婦、恋人、友人…。血のつながりや、すでに出来上がった関係性に甘え、よりかかり、相手を当然の存在のように思い込み、知ろうとせず、認めず、話を聞かず、ないがしろにして、自分の都合ばかりを優先させたことはなかったか。
本作は、ベルリン国際映画祭で、優れたLGBT映画に贈られる「テディ賞審査員特別賞」を日本映画として初受賞するなど、そうしたジャンルの邦画としては画期をなす作品となった。しかし、荻上監督自身が「トランスジェンダーの悩みだけの映画をつくるつもりはなかった」と述べているように、『彼らが本気で編むときは、』は、人と人がどう向き合うかを描いた映画だと思う。
マキオがトモに語ったセリフにこうある。「親子でもさ、人対人なんだよ」…「リンコさんのような心の人に惚れちゃったらね、もうあとのいろいろなことはどうでもいいんだよ。男とか、女とか、そういうことも、もはや関係ないんだ」
☟映画『彼らが本気で編むときは、』予告編
シネマトゥデイより